よしだ さだしげ
生没年不詳
次郎左衛門、のちに宗性と号す。資料によっては重貞とも。
吉田孝頼(周孝)の息子、弟に孫三郎がいる。
子に弥右衛門(内匠頭)重親。
長宗我部氏に仕え、重臣のひとりとなる。
1542(天正十二)年の山田合戦など、元親の土佐統一戦に多く参戦している。その中では井口城の戦いにおいて功があり、父周孝が井口城を元親から賜り、貞重もそれを継いでいる。
1569(永禄十二)年、八流の戦いにおいて敵の槍に左目を突かれるも、槍を奪い取り敵を捕らえ、首は郎党に討ち取らせている*。
この戦の後、貞重は片目となり「せんの次郎左衛門」とあだ名された*2。
関ヶ原合戦後に起きた浦戸一揆の際には、ほかの家老らとともに一揆に加わるか上意に従い城を明け渡すのかを話し合い、開城するべしとの意見を出す。その意見が通り、家老たちは城を明け渡す決断をしている*3。
その後、主家である長宗我部家が改易となり、保科氏に二百五十石で召し抱えられた。
『土佐物語』によれば、貞重は囲碁だけでなく歌学・天文学にも長けており、また土佐国における能書家のひとりとして数えられた*4。
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逃げた敵を追いかけていた所、茂みに隠れていた見知らぬ男に5.5メートルほどの槍で突かれた。しかし男の方は慌てていたのか、その槍は貞重の左目を横から突く格好となる。左目を突かれた貞重はかえって男の槍を奪い取った。『土佐物語』
*2
貞重は日頃から囲碁を好んでおり、有名なほど上手だったという。碁の先手は一目であるため、片目になった貞重の容貌に寄せてそうあだ名されたといわれている。
*3
浦戸城一揆の際、長宗我部譜代の家臣・物頭らは一揆にも上意にも組みせずいた。家老はおよそ十七名おり、その中に吉田宗性(貞重)の名もみられる。宗性は「一領具足が一揆をおこすことは、忠にあって忠にあらず」と判断し、長宗我部盛親の現在の立場と問題点を順に挙げ、家老たちを説いている。『南路志』
*4
土佐国の能書家は三人・六人・十二人と言われていたらしく、貞重は三人の中に挙げられており、ほかに「中島与市兵衛・佐竹信濃入道已閑」の二名が挙げられている。『土佐物語』
参考文献:『戦国人名事典コンパクト版』『長宗我部元親のすべて』『土佐物語』/『土佐物語(上・下)』