吉田孝俊


よしだ たかとし

?〜1582(生年不詳〜天正十)年


左衛門佐。

吉田重康(伊賀介)の息子。兄に左馬允、弟に孫助俊政がいる。

妻は鶏冠木(カエデ/カエルデ)大膳太夫の女(第六女)

子に孫左衛門(右近)康俊。

長宗我部氏に仕える。


1563(永禄六)年夏、元親縁組の際に美濃国は斉藤豊後守政吉のもとへ使者として赴く。

1569(永禄十二)年、八流の戦いでは八流砦に籠もる安芸勢に味方が苦戦している所を、予め近所の漁船と村人を集めるよう郎党に伝え、海から閧の声をあげさせて安芸勢を動揺させている。同年、安芸国虎が斃れたのち新庄城におかれた。

また、1574(天正二)年には甲浦城を与えられており、息子の康俊に引き継がれている。

1582(天正十年)八月の中富川の戦いでは、弟の俊政とともに出陣している。兄弟で敵の中へ打って出ては一所に休み、また打って出てとしていたところ、先に弟の俊政が討たれる。その後、孝俊も山田陸太夫に討たれた*2


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吉良親実母の姉妹とも。『土佐物語』


*2

この中富川の合戦出陣前に、孝俊と俊政の話に同席していた康俊は『生きて帰ろうとは思っているが、この戦ではほぼ討死するだろう。お前(俊政)と私は先陣だが、康俊と政重(俊政の子)は旗本に置く。親子が同じ場所で戦っていては不覚をとることもあろう』と父が話すのを聞いたという。『土佐物語』


参考文献:『土佐物語』『土佐名家系譜』