吉田康俊


よしだ やすとし

1565〜1634(永禄八〜寛永十一)年


右近、孫左衛門。重年とも。

吉田孝俊の息子。母は鶏冠木大膳太夫女。

六男三女をもうける。

長宗我部元親・盛親に仕える。


1579(天正七)年、阿波国での合戦が初陣。小松島合戦では桑名将監の危機を助けた

1582(天正十)年、中富川の戦いに出陣。従兄弟の吉田政重とともに旗本で戦う。この戦により父・孝俊が戦死したため、甲浦城を引き継いでいる。のちに安芸郡惣軍代となる。中富川合戦後は渭山城(現在の徳島城の一部)に置かれた。

1585(天正十三)年、豊臣秀吉による四国平定の中で渭山城から引き上げ海部城の香宗我部親泰の救援に向かうが、既に退却していた香宗我部勢に怒っている*2

1586(天正十四)年十二月、戸次川の戦いでは落ちのびる元親に付き従い、他の家臣らとともに主君を護って帰還している。

長宗我部家の後嗣問題では、盛親反対派の吉良親実と親しくしていたため*3、甲浦城を召しはなされ蟄居処分となる。

1592(文禄元)年、文禄の役は晋州の戦いで功をたてたと名前が挙がっており、出陣していたとされる。

1600(慶長五)年、関ヶ原の戦いでは盛親に従い布陣している*4。西軍敗走後、謝罪のために主君や他の家臣らとともに付き従う*5

長宗我部家改易後は土佐国に残り山内家に仕えるが、浦戸一揆*6の大将であるという讒言により死罪となる。弁明により死は逃れたが、土佐国を離れ、大和国へ隠棲することとなった。

1614〜1615(慶長十九〜元和元)年、大坂の陣では旧主盛親に従い、息子らと共に入城している。大坂城落城後は松平下総守忠明に仕え、1634(寛永十一)年、姫路で没したと伝わる。


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通説では桑名将監の危機を助けた際に腕を切られたといわれている。『土佐物語』では、章の前半部分において「(桑名)将監左の腕を半ばばかり切られながら取って押さへ・・・」とあり、当方の歴史創作では腕を切られたのは桑名将監という解釈で描く。

詳しい方いらっしゃったら情報ください。


*2

香宗我部親泰は康俊に「敵は強く、味方を分散してはよくない。海部城でともに軍議をするために早く来てください」という旨の使いを出している。しかしそののち木津城が簡単に落とされてしまったため、康俊を待つ前に香宗我部勢は急ぎ海部城から退く。それをみじんも知る由もない康俊は誰もいない海部城で「親泰め逃げたな!」と怒り、城中を歩き回って、逃げる際捨て置かれた鎧や太刀、旗を回収して土佐へ戻ったという。『土佐物語』


*3

『土佐物語』によれば、康俊の母と吉良親実の母は姉妹で、互いは従弟にあり親しかったため、連座して死罪となったとされる。

『長宗我部盛親』では、盛親の兄・津野親忠の脱国を企てた罪とされている。


*4

弓兵を引き連れ、南宮山から動けない本体の代わりに前線へ偵察に向かっている。その後、西軍が負けていることを知り、急いで報せに戻った。『土佐物語』

また『長宗我部盛親』ではそれに加えて、島津維新斎から朱鞘の刀をさした使者が来訪し、合戦で負けたため急ぎ立ち退くよう伝えたという逸話が残っていたとも。


*5

この際付き従ったのは康俊のほか、江村孫左衛門、黒岩掃部、立石助兵衛、中内惣右衛門、豊永惣右衛門、横山新兵衛ら七人とされる。『南路志』


*6

この浦戸一揆は、山内家が入ってから発生した一揆のことと考えられる。咎められる以前、すでに康俊自身はこの一揆衆討伐に参戦しており、手負いの味方を助け褒美を与えられている。


参考文献:『土佐物語』『長宗我部盛親』『長宗我部元親のすべて』『戦国人名事典コンパクト版』『南路志』