吉田政重


よしだ まさしげ

1568〜1628(永禄十一〜寛永五)年


勝五郎、又左衛門、市左衛門。のち剃髪して透無と号す。

吉田俊政の子。弟に市右衛門正義。

妻は秦泉寺掃部女ほか一女。

長宗我部氏の家臣。


1582(天正十)年、中富川の戦いが初陣。落ち行く武者と戦い、その首を獲っている*2

戦の後、伯父と自らの父の訃報を聞き敵討ちに出ようとするが、従兄弟である吉田康俊に説得され諦めている。

ほかに、土佐国安芸郡和食村に居していた専式坊の一派を和食惣右衛門とともに討ち取っている。

1592(文禄一)年、文禄の役における戦いのさなか、現地の虎を兜に噛みつかれながらも撃退し、元親から感状と共に太刀を賜っている、また、慶州の大将であった朴好仁を生け捕り、ほかにも数人捕虜として土佐へ連れ戻った*3

1600(慶長五)年、関ヶ原の戦いでは伊勢国安濃津の戦いに参加している。主家改易後は浪人していたが、1614〜1615(慶長十九〜元和元)年の大坂の陣では、旧主盛親に従い入場している。

大坂の陣においては、夏の陣・八尾の戦で首七つ、翌日の京橋口で首を五つ獲ったと記録される。しかしその際に深手を負ってしまい陣中で臥せっているところを、一族*4が助けて落城後は阿波国へ落ち延びたとされる。

阿波国の後は土佐へ帰り、安芸郡安田に住み医者になったと言われている。剃髪し、透無と名乗った。

1628(寛永五)年九月四日、同地で没した。安田常光寺に葬られたと伝わる。


六尺二寸(約188cm)の偉丈夫で腕力にすぐれており、生涯百十五の首を獲り、二十一ヶ所の傷を受けたといわれている。


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中富川合戦時、十五歳との記述に依る。『土佐物語』


*2

はじめ政重はこの武者に声をかけるが無視されている。政重はこれに打ってかかり、怒った武者と戦いその首を獲得した。『土佐物語』によれば、二尺三寸(約87cm)の太刀を持ち戦い、取っ組み合いになった際は脇差を相手の脇から胸へ差し込んだ。それが武者の致命傷であった。


*3

この時連れ帰った中にかの国の国王の娘がおり、のちに彼女を室として迎えたとされる。なお、その室との間にもうけられた子・宇右衛門の息子こそが「土佐物語」の著者である吉田孝世である。


*4

おそらく息子の平左衛門・猪兵衛らか。『土佐名家系譜』によれば、平左衛門も猪兵衛も、大坂の陣後は阿州(阿波)で没している。


参考文献:『土佐物語』『土佐名家系譜』『長宗我部元親のすべて』『戦国人名事典コンパクト版』