吉田孝頼


よしだ たかより
生没年不詳

備中守。号して周孝とも。

吉田則弘の息子。弟に吉田重俊。
子に次郎左衛門貞重、孫三郎がいる。
室は長宗我部国親女。
長宗我部国親、元親に仕える。長宗我部家家老分

1526(大永六)年、香宗我部氏と本山氏の婚姻問題における逸話で有名。智謀にすぐれ、弟の重俊とともに長宗我部氏の片腕として活躍したといわれる。

国親の死後は元親に仕え、吾川郡長浜・木塚等の戦いにおいて功をたてる。
1561(永禄四)年、土佐郡井口城主・井口勘解由を斃し、元親より井口城を与えられる。

老後は岡豊に隠居したが、永禄年間に病死したと伝わる。
井口城下西崎に葬られる*2

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『南海治乱記』「家老分の事」による

*2
『土佐物語(川野氏版)』『土佐名家系譜』より。
“晩年は岡豊に北方と居を構え、のち大高坂山南麓に移り住み亡くなった”とされる。なお『土佐名家系譜』では加えて“周孝の宅地は小高坂井口にあり。すなわち今の栄福寺という”と残されている。

参考文献:『長宗我部元親のすべて』『土佐物語(川野氏版)』『土佐名家系譜』『南海治乱記』